英語教育 雑感 [コラム]

日本で普通に生活している限り、英語はいらない。それはもう、日常生活に因数分解や開脚前転やリコーダーの演奏がなくても、別段問題なく暮らしていけるのと同じことだと思う。

でも、日常生活に直接関係しなくても、いろいろなことを学ぶことで自分の知的世界と行動範囲は広がっていくし、深まっていく。そこが大事なことなのではないだろうか。

ただ生きていくだけに血道をあげるなら、それは生物としての本能に従っているに過ぎないわけだから。

しかしまあ、このあたり、分かっている人は言われなくとも自明のことと思うだろうし、分かっていない人はいくら言葉を尽くしても、意味不明の御託を並べているとしか思ってもらえないのだろうと思う。

結局自分は、英語を教えることを通して、「知的世界と行動範囲を広げてみよう」と呼びかけたいのだろう。

多分それは「とっとと英語力だけ伸ばしてくれれば良いんですよ。自分の知的世界と行動範囲を広げることなんかは、自分で考えます」という人たちのニーズとは食い違う。そして、世の中の英語学習者のかなりの多くがこちらのパターンだ。

ただ、ここで問題となるのが冒頭で述べたことになる。英語の力は、基本的に「なくても生きていける」ことなので、英語の勉強もほとんどの人にとっては、やはり「やらなくても生きていける」ことになる。そこで、どう英語学習に取り組むか、という話になるのだ。

本来の学びの姿勢が出来ているのであれば、自力では埋められない部分をうまく教材やレッスンを活用して埋めていくことができるのだが、そうでない場合、一から十まで「教えてもらう」ことに頼ってしまう人があまりに多い。しかも、対価を差し出すことなしに、だ。

100円のお菓子を手に入れるには、自分の持っている100円玉を差し出さなくてはならない。それと同様に、何かを学ぶには、何かを差し出すことが不可欠になる。しかし、「学習丸投げ」タイプの方は、それすらも差し出そうとしない。

「時間もかけたくないし、金もかけたくないが、実力だけはつけてくれ」

そう言われてもなあ、と腕組みして首を傾げつつため息をついてしまう。お菓子は欲しい、でも100円玉は手放したくない。そんな駄々っ子のようなことを言われても。

哲学者の木田元さんの「闇屋になりそこねた哲学者」という本に、木田さんがどのようにして語学を身に着けたのかという、すさまじい(かつ、「哲学」という上位目標があれば、このぐらいやれても不思議はないなあと思わせる)エピソードがあるので、ぜひ参照していただければ、と思う。

こういう本を読んだ後に、「NHKの講座のテキストが数十円値上がりした!ふんだくりやがって許せん!」みたいな意見を耳にすると、実にこう、深く脱力してしまう。そういう方に限って、趣味には平気でポーンとお金を出すのではないだろうか。値上がりしても1か月で4百数十円。一日あたりにしたら、20円にもならない。まあ、私の講座は週2回なので、1日あたりだと50円ちょっとになるが、今時それで他に何が買えますか?

それとも、私の金銭感覚がずれているのかなあ。語学学習のために、ひと月に4百円ちょっと使うなんて、言語道断の浪費なのだろうか。

ラジオ講座の話が出たのでついでに触れるが、放送の際に「余談が多い」というお叱りの声も耳に入ってくるが、あれは「余談」じゃないんですよ。テキストの内容を起点にして、四方八方に広がっている道を、時間の許す限りご紹介している……のだが、まあ、それが「余計」と感じてしまう方は、資格試験の対策CDなんかをお聞きになることをお勧めする。でも、聞かないのだろうとおもうし、聞いても「聞き流す」ことしかしないから、時間やお金をかけても前進できないのだ。

正直、あるレベルから先になると、英語そのものを勉強していても仕方ないし、そもそも日本に住んでいれば日常生活にはほぼ必要のない言葉をせっかく学ぶのだから、「役に立つ、立たない」という狭い料簡で考えていては、もったいない。英語をツールにしていろいろなことを吸収して、考え、それを発信し、発信したことに対する周囲の反響をもとにさらにいろいろなことを吸収し、考え……というサイクルを回してほしい。

それ以前のレベル、というか、あまり使いたくない尺度だが、実感できる人が多いと思うので嫌々使うのだけれども、TOEICでAレベル(860点)にも届かないのであれば、良い教材やレクチャーはいくらでもあるので、あとは「やるかやらないか」だけだと思う。

今、英語教育に必要なのは、「中・上級レベル」、つまり、「英語ができると周りには思われているけれど、今一つ壁を破れない気がしている」層にとっての教材とレクチャーだと思う。それに対する回答の一つが、私が目指しているラジオ講座というわけだ。

ただ、これもいろいろ難しいというか、おそらく、ではあるけれど、NHK側は常に「より優しく、万人向きに」と考えているのだと思う。ともすると、非常に優しいレベルの解説やら語句紹介やらということになってしまう。公共放送としては、仕方ないことなのだろう。

ある程度突き放して、「この点に関してはちょっと調べれば分かりますので、ぜひ調べてみてください」とやりたいのだが、そして、逆に私の講座のレベルのリスナーにはそういうことが必要だと思うのだが、さすがにそれは無理なようだ。

寄せられる質問も、ともすると単なる文法解説に終始してしまうので、「全部が文法関連の質問、というパターンはなるべく避けましょう」とお願いしてある。とはいえ、「文法的に納得したい」のが日本の英語学習者の特徴のようで、4月から都立日比谷高校の石崎先生に文法に絞ったコラムを毎月ご依頼しているのは、そのような質問に、さらに手厚く対応できる体制を敷こうと考えたからだ。

それでもいろんな声はあるようで、「柴原の喋りを全廃しろ。そして英文の分量を5倍に増やせ」というものもある。そこまでの力がある方は、どうぞ一般の英語放送をお聞きください、と言いたくなるが。もっとも、毎回同じ指示を出していることに関しては、私もいろいろ思う所はあるのだが(特にRepeat & Look upのやり方など)、NHK側からそういう指示があるのでそれに従っている部分もある。

昔、父がよく見ていた東後勝明先生の「テレビ英語会話」みたいなものが、今、必要なのではないかなあ。

http://www.youtube.com/watch?v=EwR4_xxawdA

さすがにこれをやる力は、自分にはないけれど、関谷先生あたりだったら面白い番組になるのではないか、と思う。

なんだかまとまりのない文章になってしまったが、要は「日常的に直接役立たないからこそ、学ぶ価値がある」ということが、そもそも言いたくて書き始めたのであった。

ま、自己弁護、とも言いますね(笑)。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします!

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