「型」としての「文法訳読」方式 [コラム]

春風亭昇太さんが出演している劇を見に行った。昇太さんは実に芸達者な方で、演じたり歌ったり踊ったりと多芸ぶりを拝見した。しかし、やはり出色の出来だったのは、劇中劇で落語家として語った「小噺」。

「語り」の次元が違った気がした。昇太さんだけの力ではなく、江戸の庶民の語り口とか、落語が連綿と受け継いできたものの後押しを感じる。

決して昇太さんが力不足だなどと言っているのではない。そうではなくて、その背後にある「伝統」というか、「型」のようなものの力を感じた。それによって、もともと高い「語り」のレベルが、さらに高いものになっていると感じたのだ。

力のない人はそれなりに、力のある人でもさらなる高みに。「伝統」とか「型」とかいうものは、そうやって人の能力を引き上げる力があるのではないかと思う。

たとえば英語教育において、「文法訳読」は「型」のような役割を果たしていたのではないか。

「型」というと以前習っていた空手を思い出すが、フルコンタクトの流派だったので、普段の稽古では直接突き蹴りを叩きこみあうことが多く、型はほとんど練習しない。しかし、昇段・昇級試験では必ず型の審査があった。

確かに「型」だけでは実戦には対応できないのかもしれない。しかし、私のように運動が大の苦手だった人間でも、型の稽古を通して能力を引き上げてもらったという実感はあるし、黒帯の先輩方に伺っても、「新たにいろいろ見えてくるものがあって、型の稽古への興味は尽きない」ということだった。

文法訳読だけで英語「全体」には対応できない。それは当たり前のことだ。しかし、だからと言って完全に文法訳読を捨ててしまうのは、貴重な「型」、英語教育が培ってきた「伝統」を、あっさり捨ててしまうことにつながるのではないか。とても便利で、有効な「型」であり「伝統」であるのに。使わない手はないのに。

高校での「オールイングリッシュ」化など、英語で英語を教えるという非効率な(個人的にはそう思う)英語教育が広がりつつある今だからこそ、通訳・翻訳教育を通して、「文法訳読」の良い面を、英語教育に残して行こうと思っている。

本来、新たな指導法が導入されることは、それ以前の指導法の全否定には必ずしもつながらないはずだ。お互いの良いところを取り、短所を補い合ってアウフヘーベンしていくのが理想だと思う。

「オールイングリッシュは『法律だ』」という文科省関係者もいらっしゃると聞いたが、現場からそっぽを向かれては教育改革も何もあるまい、と思うのだが。

いかに巻き込んでいくか。教育も、教育改革も、基本は一緒だ。

そしてその効果的なツールとして、「型」的なものの存在は重視していくべきだと考えている。
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