分からないけれど、触れておく [コラム]

絵心がないし、絵が分からない。音楽の神髄を聞き取るような耳もない。文学作品の良さも、十二分に感じ取れているとは思えない。

それでも触れておく、ということが大事じゃないかなあと思って、「芸術」と名のつくものには、機会を見て触れるだけは触れようとしている。何かを感じ取れるし、楽しいし。

欲張りなのかもしれないなあ。もっと分かってもっと楽しみたい、と思っているのかもしれない。

そんなこんなで、せっかく地元に近代美術館があるし、先日子供たちと足を運んで、ポール・デルヴォーという画家の特別展を見てきた。

見たことのあるのは「森」という作品だけだったが、生い立ちが非常に興味深かった。

ついでに常設展も見に行く。「木口木版」というものを特集していて、これも面白かった。

昔は教科書の図版や新聞の写真代わりに使われていたのだそうだ。日和崎尊夫という方の作品が紹介してあった。その説明文が良かったので、入場券の裏に書きとる。

「それは黒一色の固い小口の版面をビュランで刻みながら光を当てて行く作業です。闇の世界に名前すら持たない森羅万象の存在に照明をあて、このものの所在を明らかにし、現実世界に連れ出してくる作業。夜空に瞬く星に語りかけるように、イメージを求め広大な宇宙へ呼びかけ、その存在を問う行為といってもよいかもしれません。」

使うのは椿の木など。ビュランという刃物で、一分間に200~300回も木を刻むのだそうだ。

常設展ではおなじみの絵も、久しぶりに見ると良いなあ、と思う。「ジヴェルニーの積みわら、夕日」(クロード・モネ)、「エラニ―の牛を追う娘」(かみーゆ・ピサロ)などが心に残った。

初めてみるのだが、鮮烈な印象があったのが、 「Vision Fugitive」(五月女幸雄)だった。

ミュージアムショップでチョコレートを2箱買い求め、息子と2人でメッセージを添え、妻と娘にかなり遅れた「ホワイトデー」のプレゼントとする。
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