齋藤孝先生の講演会に行ってきました [コラム]

「致知」という雑誌が主催した、明治大学の齋藤孝先生の講演会に行ってきました。1時間ほどの短いお話でしたが、いろいろと気づきがあったのでシェアしたいと思います。

「実語教」という、平安時代に成立し明治初期まで寺子屋などで教科書として使われていた本がありまして、その本の内容と、精神の軸を作る、ということがお話の中心でした。

印象的だったことを以下に列挙します。例によって柴原の聞き間違い、勘違いなどを含む可能性がありますことをご了承ください。

柴原 智幸

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・今の大学生は、心が折れやすい。それこそポッキーのように折れる。励ますつもりで「君が教員になるなんて、千年早いぞ」と言ったら、それでガックリ来てしまう。

・学生たちは、積極性はないが、やらせるとやる。したがって、適切なミッションを与えるのが大切。

・授業では一週間に新書を5冊読んで、それを紹介させている。
→通翻生の諸君、「5」冊ですよ、5冊。昨年諸般の事情で中止となってしまったプロジェクト330は、週に「1冊」のブックレポートでしたよね。

私がやろうとしていたことは、本学の学生にはレベル的に難しかったのではないか、というご意見も私の耳に入ってきていますが、私はそうは思っていません。偏差値と本を読む力は関係ないと思うのです。

ちょっと語弊がある言い方かもしれませんが、「頭の良いバカ」もいると思うし、「賢明な劣等生」もいると、私は思うんですよ。私は前者よりは後者でありたいと思います。気がつくと、単なる「バカな劣等生」である自分に気づいて、愕然とすることもよくありますが。

まあとにかく、私と齋藤先生では月とすっぽんですから、そこで差がつくのは仕方がないにしても、知的レベルという点では、明治大学の学生さんと通翻課程生には、私と齋藤先生ほどの格差はないはず。

明治大学で齋藤先生に習っている学生さんは週に5冊で、本学の知的学生のspearheadであることを目指す通翻生が、週に1冊。別に競争ではないとはいえ、これでは差が開く一方です。

やればできる、と私は思うんですけれども、皆さんはいかがでしょうか?

・人間を構成するのは「心」と「身体」と「精神」。

・「心」は移ろいやすい。朝起きて雨が降っているだけでもふさいだりする。したがって、あまり「心」をfluctuate(すみません、実際はどうおっしゃったのか忘れました)させないことが肝心。

・そのために、「身体」と「精神」の安定が大切。「心」≠「精神」

・「実語教」は「精神」修養のための書物。「精神」とは、変わらないもの、不動のもの、揺らがないもの。例えば武士道という精神は、天気には左右されない。論語が語る精神も同じ。

・「精神」の安定は、人格の安定につながる。

・「身体」「精神」という土台の上に、「心」を載せる。

・漱石、鴎外などは「素読世代」。自分の「中」に精神性を構築していた。時代が下って白樺派ぐらいまで行くと、「教養世代」。しかし、「知識」では精神は鍛えられない。

・情報をいくら見ていても、精神は身につかない。例えば、ネットサーフィンで「精神」を作って行くことは不可能。

・単なる友達づきあいでも、精神を身につけるのは難しい。友人から「お前、それはまさしく『仁』だね」などというメールが来るとは考えにくい。

・コーチのお手本を見ているだけでは、テニスはうまくならない。講演会も同じで、講師の言っていることを聞いているだけでは身にならない。習ったことを、誰かに話すことが大切。

・講演会で聞いたことに、「自分の経験を1つまぜて」、最低2人に話すことが大切。

・「引用ができるかどうか」で、読んだ本が自分のモノになっているかが分かる。

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