ファン・ティー・キム・フックさん講演会に行く [コラム]

妻と一緒に、西南学院創立100周年記念・東京オフィス開設記念講演会である、「ファン・ティー・キム・フックさん講演会」に行ってきた。

ファン・ティー・キム・フックさんと言われて「ああ、あの!」と反応出来る方は、一定の年齢層より上だろうと思う。しかし、9歳だったキム・フックさんが、ナパーム弾の黒煙を背景に、裸で泣きながら走る写真は、多くの人が見たことがあるのではないだろうか。

私の娘も9歳。そう思うと、キム・フックさんが幼くして背負い込んだものの重さにうめき声が出る。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AF

1972年6月8日。南ベトナム軍の誤爆による悲劇だった。当時私は3歳。決して「つい最近」のことではないが、歴史の教科書の片隅で、ほこりをかぶっているほど昔のことでもない。「今」と地続きの歴史だ。

日本で何不自由なく育っていた3歳の私。そして同時期に、ベトナムで体をナパームの炎に焼かれ、「熱い!熱い!」と泣き叫んでいた6歳年上の少女。そんなベトナム戦争の歴史の生き証人と対面することに、少々緊張しながら会場入りする。

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「平和を作り出す人材を育成する」というのが、西南学院のモットーだという。いわゆるミッション系の大学だ。講演の通訳をしてくださったのは、2001年に西南学院大学を卒業された男性だった。見事な通訳だった。

あと10年ぐらいたって、本学で同じような講演会をするときに、通翻の卒業生が通訳にあたってくれるととてもうれしいな、と思う。

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司会の女性が、キム・フックさんの略歴を述べて下さった。

1972年6月8日に誤爆にあった時点で、9歳。14か月入院して、17回の手術を行なう。

戦後は、ベトナム政府によって広告塔として政治的に利用され、後にカナダ亡命。

1997年11月、ユネスコ親善大使となり、キム財団を設立して、戦争や紛争の犠牲になった子供たちの支援にあたる。

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以下、講演会で取っていたメモから、キム・フックさんの言葉を列挙する(私の誤解、聞き間違い、誤記もあり得るので、その点はご了承下さい)。

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1972年6月8日にナパーム弾攻撃を受けるまで、戦争のことは何も知らなかった。それまでの一番の大けがと言ったら、自転車から落ちて膝を擦りむいたぐらい。

爆撃の当日、寺院に隠れろと言われた時も、「何だか冒険みたい」と思っていた。寺院は聖なる場所、安全な場所だ。

ところが兵士が来て、子供たちに「逃げろ!」と言った。初めて怖くなった。

飛行機の爆音がとどろく中、道を走っていると爆弾が落ち、ガソリンが燃えた。

一瞬で服が燃え尽き、皮膚が燃える。誰かが「熱い!熱い!」と叫んでいる……それは自分の声だった。

その時の様子をAP通信のカメラマン、フィン・コン・ウトが撮影し、その写真は人々の心をとらえ、ピュリッツァー賞を受賞した。あの写真が戦争終結の一助となったという人もいる。

被曝後、第1小児病院へ連れて行かれたが、「これは助からない」と判断され、死体安置所に寝かされていた。

3日後、遺体を引き取りに来た母が、まだ息のある自分を発見し、病院に旧友がいた父が友人に掛け合って別の病院に転院することになる。そこでは14か月入院し、17回手術した。最後の手術は1984年、ドイツで行った。

回復は困難な道のりだった。退院した時も痛いリハビリを毎日やらなくてはならなかった。

やけどのせいで、自分が可愛いと思えない。

やけどに触るたびに、怖い思い出がよみがえる。

他の女の子が半袖の服を着られるのがうらやましい。

自分はもう、男の子に愛されることも結婚することもなく、普通の生活は送れないだろう。

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メモに赤字で「笑顔」「穏やか」「やさしい魅力」と書いてある。こんな話をしながら、キム・フックさんは常に微笑みを絶やさなかった。

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退院した時の夢は、医者になる事だった。10年後の1982年、サイゴン(ホーチミン)医学学校に入学。

しかし、ベトナム政府はキム・フックさんを戦争のシンボルに使おうとした。学校から連れ出され、外国人記者とインタビューをさせられる。勉強は様々な形で妨害された。

自分は「また」戦争の犠牲になった。かごの鳥だった。Why me?

自分をこんな目に遭わせた人を、殺したい。苦しみを与えたい。そう思った。

しかし、いつまでもそんな風には生きられないと考える。

I have to change my heart or die from hatered.(考えを変えないと、憎しみのあまり自分が死んでしまう)

どうやって心を落ち着け、前進するのかを悩んだ挙句にたどり着いたのが、バイブルだった。19歳でクリスチャンになる。1982年のクリスマスのことだった。

1986年、キューバに留学。6年間ハバナ大学で学び、そこで夫に出会った。1992年9月11日結婚。モスクワに2週間ハネムーンに行った。

その帰りに、飛行機が給油のためカナダに1時間止まった。その時に夫と2人で亡命。お金も知り合いもなく、カナダの文化も全くわからない中での亡命だった。

(聖書の一節を紹介し)自分を苦しめた人を許すことを学んだ。非常に大きなことだった。

最初は、感情的にも肉体的にも辛く、許すのは絶対に無理だと思った。神に祈りをささげるばかりだった。

In order to be free, I have to learn to forgive.(自由に生きるには、「許すこと」を学ばなければならない)

投下された4つの爆弾の落下点の中心に自分はいた。1200度の炎に焼かれ、死んでいたはず。皮膚も焼け落ちていたはず。でも……この通り、手も顔も、きれいでしょ?(笑い起きる)

I shall not die but live to declare the work of God.

自分の心はブラック・コーヒーの入ったグラスのようだった。祈りをささげ、少しずつどす黒い思いを減らすのだが、どうかすると、またすぐ「ブラックコーヒー」でグラスが満たされてしまう。それでも祈り続けた。

やがて、ブラックコーヒーは少しずつ減り、ついにはどす黒い思いの代わりに、きれいな水で、自分の心は満たされるようになった。

自分に苦しみをもたらした人を、1人1人祈りのリストに加えて行った。

The more I prayed for my enemy, the softer my heart became. (敵に祈りをささげるほど、心が解きほぐされていった)

一言でそう言ってしまうと簡単そうに聞こえるけれど、人生で一番難しいことだった。でも、皆さんにもきっとできること!

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その後、1996年にワシントンにあるベトナム戦争慰霊碑を訪れた際の、元アメリカ兵との交流、さらにはキム・フック財団のウガンダでの活動などについて触れた。

http://www.kimfoundation.com/

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最後に、あの写真(被爆直後のキム・フックさん)の新しい見方をお教えしましょう。

あの写真に写っている女の子は「熱い!熱い!」と泣き叫んでいると皆さん思うでしょう。

でも、こう考えて下さい。あの女の子は「世界に平和を!(She's crying out for peace.)」と叫んでいるんです。
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